はるの昔ばなし
おらんど様の大杉
荒倉街道を北へ入って行くと、吉良〔きら〕城跡の麓〔ふもと〕近くにおらんど様という小さいお堂があります。
このお堂は、如来堂敗戦の時に留守組となり、戦い敗れて討死〔うちじに〕にした人びとを祀ったものではないかといわれています。裏にまわると雑草の中に五輪の石塔が十五、六基立っています。
藩政の頃、ここにすばらしい大杉が生えていました。遠く南の里からも尾根越しに眺められたという大木でありました。大阪の豪商が金にまかせてこれを買い取り、船を造りました。ところがこの船は出るたびに大時化にあうのです。それでいつも積荷を流し、次第に店が衰えていきました。人びともいつしかこの船を『しけいち丸』と呼んでいましたが、しまいにはとうとう難破してしまいました。
明治になって二代目の杉が二本なかなか大きくなっていました。灰屋の谷(荒倉谷の入口近く左側に石灰焼き場がありました)の亀造さんという人が一晩夢を見ましたが、「吉良落城の時埋めた軍用金のつぼがこの北の谷にある」というのです。
亀造さんはこの事を石槌山の先達、大小路の近森某に話しました。近森さんがお伺いを立ててみると「確かにある。目じるしの葉蘭〔はらん〕の下を掘れ」と出ました。二人で朝から晩まで葉蘭を探して掘りましたが、つぼはおろか欠けら一つ出ませんでした。
もう一度伺いを立ててみると、こんどは「も一つ北の谷のおらんど様の裏の樫の木の下を掘れ。」と出ました。おらんど様の裏へ行ってみると、小さい樫の木が一本ありました。しかしその樫の木の根元は、大杉の株ががっちりと食いこんでいます。いかな亀造さんでも大杉のたたりのことを思うと手を付けることが出来ません。とうとうつぼ掘りはそのままになってしまったそうです。
今でもおらんど様の裏手には、大きな杉の株が二つ朽〔く〕ち果〔は〕てた姿で残っています。
如来堂敗戦…如来堂〔にょらいどう〕は仁淀川の近くにあります。『古城伝承記』などの軍記物によると、吉良城主の吉良駿河守はここで漁をしているときに本山茂辰率いる軍勢に攻められ、討死しました。