はるの昔ばなし
新助地蔵
弘岡上の小田から水路が二つに分かれます。南側の水路を少し下って行くと〈しんす〉というところにかかります。
昔はここに大きな石畳の堰がありました。川窪〔かわくぼ〕井筋に水を入れるための堰です。川幅は今の三倍もあり、中程に筏の通り道も造ってあって、流れはここで一だんと急になり、下手はおとなのせいも合うか合わぬかという程の深さになっていました。
元禄の頃、この里に大安並〔おおやすなみ〕と呼ばれていた長者がありました。安並家はこのほかに東安並、北安並というお大家もあり、どのお家も広い広い田地を持っておりましたので、人びとは『深瀬金持ち、安並地持ち』と言っておりました。三軒のうちでも大安並家は作男十人も使っている豪農でありました。
この作男の中に少年が一人おりました。新助といい、年は十五、六、ものを言う時舌がもつれる病気があり、足も片方が少し不自由な少年でありました。
ある夏の日のことでした。大安並家の一人息子、その時六つか七つでしたが、この堰の近くの道で遊んでいて川に落ちてしまいました。一緒にいた子ども達も、ただあれよあれよと言うだけでどうすることも出来ませんでした。
その時、一人の男が着物のままでざんぶと川へ飛びこみました。作男の新助です。渦に巻かれて浮きつ沈みつしていた安並の子どもを助けて岸に押し上げましたが、足の悪かった新助はここで力尽き、川底に沈んでしまいました。
傷ましい新助の死は人びとの涙をさそいました。その後だれ言うとなく、この堰を〈しんすの堰〉と言うようになり、このあたりの字〔あざ〕を〈しんす〉と呼ぶようになりました。
やがて人びとはここに小さな石地蔵を建てました。みんなは『新助地蔵』と呼びいつまでも哀れな新助をしのびました。慶応三年にもう一つ地蔵さんが建てられました。今もこの二つの地蔵さんは川窪のゆるの上、曲がり角のところにあって、部落の人びとによって大事に祀られています。
作男…さくおとこ。雇われて田畑の耕作をする男のことです。
ゆる…「井流」と書きます。そもそもは用水路の水門のことですが、ここでは用水路の分岐点を指しています。