はるの昔ばなし
じょうの搗きや
春野には、昔あちこちに、井筋に沿うて水車小屋がありました。森山にも城山の南の方に『じょうの搗きや』というのがありました。大正の頃までその水車は回っていましたが、この搗きやを始めた人が源蔵さんという人です。
源蔵さんは明治の初め、森山の下部落で農業をしていましたが、体も大柄、声の大変大きい人でありました。ある時、城山の近くで火事があり新建ちの家が丸焼けになってしまいました。どうも放火らしいというので調べが始まりましたが、宵のうちにその家の悪口を言って通った者があるというので、声の主を探せということになりました。
こういう事から、ふだんから声の大きい源蔵さんに目が着けられました。いや応なしに引っ立てられました。源蔵さんは
「つけ火をするような人が、初めから大きな声で通ったりするかよ。」
と言いましたが聞き入れてくれません。きつい拷〔ごう〕問が繰り返し繰り返し行われました。
ある時などは、さんざんに打ち叩かれた揚句〔あげく〕、屋根の上にすわらされました。朝になってぐったりしているものですから、看守が心配して「源蔵っ」と呼びましたが返事がありません。もう一度「森山の源蔵っ」と呼ぶと漸く気が付き、大きな声で「ヤッ」と言って目をあけたということです。
しかし源蔵さんの辛抱もここまででした。看守に頼んで息子の市太郎を呼んで貰い
「もう、わしは体が持たんによってお受けすることにした。お前だけはわしの無実を信じてくれ。」
と言って罪に服しました。
その後、幾月か経って真犯人が見付かりました。源蔵さんは晴れて青天白日の身となりました。監獄を出ると、喜びのあまり思わず大声で
「ここはお城の北山しぐれ、思いないこと晴れてのく――。」
と歌ったということです。
誤認逮捕の慰謝料として〈搗きや〉の権利を貰い、帰って来てから城山の南、三宝山の登り口近くに建てたのが源蔵さんの『じょうの搗きや』です。
源蔵さんの搗きやは二十年程続きました。いきさつを知っている人は「ひさしの源蔵」と呼んでいたそうです。体も大きく力もあったので、米一俵などは片手で持っていたといいます。
源蔵さんが亡くなると一家は高知へ出ました。後は川島門次郎さん、田中二郎さんと引き継ぎ、大正の終り頃に廃業、今は何一つ残っていません。市太郎さんの曾孫〔そうそん〕に当る方が、年に一度墓詣りに帰って来るということです。