はるの昔ばなし
かめ割の山崎さま
諸木〔もろぎ〕の東の端、北亀割〔かめわり〕山の麓に若一王子〔にゃくいちおうじ〕のお宮があります。その境内にある「山崎神社」についての昔の話。
それは今をさかのぼる何百年かの昔。新川川も無ければ井筋も無かった時代のことです。内の谷川は戸原〔とばら〕の浜に注ぎ、谷々の小川は全部南へ南へと流れて、底地は泥沼、ましなところで草っ原という有様でした。
ここを開いた人びとの苦労は大変だったろうと思われますが、それこそ人びとは、杭打ち・地ならし・水落としなど、手をつくして一枚また一枚と田を造っていったことでありましょう。
この大仕事の先頭に立っていたのが、山崎某という人です。元は高岡郡仁井の人といいますから、今の新居の出身でありましょうか。
やがて、今の新川川に沿うた上関田・下関田、それから北頭・南頭、北の丁・南の丁、芝開き・タレウド等、現在弘方〔ひろかた〕と総称〔そうしょう〕されている土地が次々と出来て行ったわけであります。
この偉大な開拓者を、一緒に働いた人びとはこぞって尊敬し、その人の死後神様として北亀割山の頂上に社を建てて祀〔まつ〕りました。そうして、正月・五月・九月には賑〔にぎ〕やかにお祭を行なって来ました。とりわけ秋祭の時は、新穀〔しんこく〕による造り酒や田畑の作物を供え、お参りに行く人びとの長い列が続きました。
やがて山頂の広場では酒宴が始まり、飲めや歌えの大騒ぎ―、下山の時は誰もかれもがふらつく足で大混雑でしたが、若者の一人はかかえていたお下がりのお酒のかめ(甕)を取り落としてしまいました。だいじなかめが割れたのです。
この時以来、「山崎さまのお祭には、かめを割るばあ飲まんといかん」ということになり、土地の名も甕割(今は亀割)となったといいます。
新川川も無ければ井筋も無かった時代…春野町内を流れる新川川と井筋(用水路)ができたのは約350年前のこととされています。
山崎某…『諸木の記録』(諸木の記録刊行会、1962)によれば、「山崎某」は山崎弥右エ(衛)門とされています。同書によると、弥右エ門は祖父の代に山内一豊の土佐入国につきしたがって、京都よりきたといいます。そして、父の代で家が断絶しますが、のちに百人並郷士となり、二代藩主忠義のときに土佐郡比島村(現高知市比島)の開発を願い出たとのことです。また、『南路志』によれば、弥右衛門はもともと摂津国(現兵庫県)三田城主で、やはり一豊入国とともに土佐にきて、のちに自費で今回の舞台である亀割地域などの田地を開墾したといいます。
高岡郡仁井の人…高岡郡は仁淀川をはさんで吾川郡と隣接する郡で、春野からみれば仁淀川の対岸(西側)にあたります。「山崎弥右衛門」の名は17世紀を通して各史料に登場するため、同名の者が複数いた可能性があります。本文中にあるような高岡郡にいた、もしくは高岡郡を開発したという史料は確認していませんが、元禄15(1702)年に「仁淀川限り追放」となった「山崎弥右衛門」が史料(『馬詰親音筆記』)で確認できます。それ以降は高岡郡の人として認識されるようになったのかもしれません。
新居…にい。土佐市新居のこととみられます。土佐市全域は旧高岡郡に属していました。
ばあ…「~ばあ」は土佐弁で「~くらい」「~ほど」という意味で、ここでは「(酔って)甕を落として割ってしまうほど」という意味です。