はるの昔ばなし
えながかせえ
甲殿〔こうどの〕や戸原〔とばら〕では漁師遭難〔そうなん〕の話をほとんど聞きませんが、砂浜に並んでいる墓石の中には、しけの海で命を落とした人のものもきっと幾つかはあると思います。
海での恐ろしい話の中にきまって出て来るのは亡霊〔ぼうれい〕の話です。海で亡くなった人びとが、時にはおぞましい亡霊となって、漁に出た人達を海底に引きずりこむというのです。
荒れ狂う突風と、砕け散るすさまじい大波の向こうから「よいしょ、よいしょう」という不気味な掛け声が聞こえ始めると、闇の中から小舟に乗った無数の亡者〔もうじゃ〕共が現われ、漁師の舟を取りかこみ
「えながをかせえ、えながをかせえ!」と大声でわめくそうです。
えながとは柄の長いひしゃくのような物で、亡者は受取るやいなや「どぶり、どぶり」と海水を汲み上げて、舟もろともに漁師を沈めようとするのです。
亡霊に見込まれた漁師が助かる道は一つ。それはえながの底を抜いて渡すこと。亡者共は吹き荒れるしけの海で、やっきになって沈めようとしますが、底抜けのえながではさすがに疲れてしまい、そんな時だけようように漁師は助かったそうです。
昔から海で死んだ人は、生きている人を七人取り殺さなければ浮かばれないとか―。雷鳴がとどろき、狂ったようにたたきつける風雨と波の群れ!
そんな、ごう然と暴れまわる大自然の猛威〔もうい〕の中で、もみくちゃにされ、絶叫〔ぜっきょう〕しながら、波に呑まれていった昔の人びとが、さびしさの故かこの世への未練か、闇の中から迷い出て、仲間を海の底に誘っていくというのは恐ろしくもあり、また哀れな気もいたします。