はるの昔ばなし
文庫のたいまつ
仁ノ〔にの〕と甲殿との堺、海に突き出た小さい岬を文庫〔ぶんこ〕(の鼻といいますが、ここにある崖のところを昔から“文庫落とし”と呼んでいます。
長宗我部〔ちょうそかべ〕の時代、ここを通るには崖道を越して行くよりほかなく、高岡〔たかおか〕城と浦戸〔うらど〕城との間を往復する飛脚〔ひきゃく〕たちがこの崖を登る時、前がつかえて文庫をたびたび取り落としたということから“文庫落とし”というようになったといいます。
それよりももう少し前の話です。京都のさるお公卿〔くげ〕様のお姫様が、幡多〔はた〕の一条公へお輿入れが整いまして、京からはるばる嫁入り道具を送って来ることになりました。その祝い船が風の具合で文庫の沖まで来て進みかねておりました。
日頃貧しい暮らしに明け暮れていた土地の人びとは、この船を見てあげ船をたくらみました。あげ船というのは、さそいの火を明からして船をおびき寄せて座礁〔ざしょう〕させ、その船に乗りこんで品物を奪うというやり方です。日の暮れるのを待って、文庫の鼻であかあかと松明を焚〔た〕きました。
京からの長い船旅で、疲れきっていた船頭や附け人達は「ヤレヤレ、やっと目的地に着いたぞ」「これで大役が果せた」などと喜び合いながら、明かりを頼りに入って来ました。
ところがどうでしょう。そこは港ではなく、一ぱいの岩礁だらけの岬の突っぱなでした。
たちまち、船は岩に当たって動けなくなってしまいました。「それっ」とばかり土地の人びとは船に乗り込み、手当りしだいに高価な品物を奪ってしまいました。
「どうかお返し下さいませ。このままでは私共は生きて京へは帰れませぬ。」
「せめてその桐の箱だけでも返して下さい。」
と、附け人達は船べりに手をついて必死で頼みました。しかし一向に聞き入れてくれるようすはありません。無念の余り、附け人達はながはえの岩にのろい釘を打ち込み、立ち腹切って主君に詫〔わ〕びたといわれています。桐の箱には八畳吊〔はちじょうつ〕りのりっぱなかやが入っていたということです。
それから後、この悪事を働いた土地の人びとには附け人達ののろいが掛かったのでしょう、首や手足の不自由な人ばかり生まれ、仕事も出来ず苦しい生活が続き、とうとう子孫が絶えてしまったということです。
長宗我部の時代…「長宗我部氏の支配下であった時代」という表現と考えられます。16世紀後半のことでしょう。
高岡城と浦戸城との間…16世紀後半代の長宗我部氏当主であった元親〔もとちか〕は、天正19(1591)年より浦戸城を自らの拠点とするようになります。その浦戸城と仁淀川右岸にある高岡城(土佐市)を結ぶルートとして、この文庫の鼻越えの道が使われたということでしょう。
幡多の一条公…「幡多」は現在の高知県西南部の地方名です。この地域には、応仁・文明の乱のさいに関白一条教房〔のりふさ〕が下向したことにはじまる一条氏(土佐一条氏)がいました。