はるの昔ばなし

助が渕名前の由来

 

 森山上部落の堤防を越えて南へ行くと、田んぼのはずれ近くに沼が二つあります。

 東側のは今も緑色の水をたたえて、五位さぎなんかの憩いの場になっていますが、昔からいうとずっと小さくなっています。まあ五分の一くらいになっているといえましょう。これが助が渕で、三、四十年程前までは烏貝〔からすがい〕の大きなのがとれていました。

 藩政時代もごく終わりに近い頃、この里に助さんと呼ばれる働き者が住んでいました。当時は仁淀川は毎年のように洪水を起こし、川岸の土地は年々に崩れ減っておりました。その修復の工事に助さんは出ていったのです。

 人数の少ない昔のこと、作業のはかどりも悪く、じゃかごで固めた土堤〔どて〕は翌年はもう大方が崩されたといいます。ところで、助さんが中心となって造った木わく固めの箇所は、何年たってもびくともしないので、助さんは仲間たちからも「助さん」「助さん」とだいじに扱われていました。この木わく固めの土堤は明治の中頃まで残っていて、明治の土木関係者もその丈夫さに驚いていたといいます。

 助さんについては、そのほかの事は何も伝わっていません。家族のことなども全然わかりません。ただ某月某日、こつ然として助さんの姿がこの里から消えたのです。山仕事にでも行ったのかと思っていた里人たちも、幾日たっても帰って来ない助さんに気が付きました。ほうぼう探しているうちに、田んぼのはずれこの東側の沼の岸辺、大きな柳の根かたに助さんの下駄があるのが見付かりました。

 人々は沼の底を念入りに探しましたが、助さんの姿はついに出て来ませんでした。しかしここに下駄があることから、助さんは貝とりに入って溺〔おぼ〕れて死んだだろうと考えましたが、それにしては死体が見付からないのが不思議だ、と、しばらくはこの話でもちきりでありました。

 今は小さくなって、周りが百メートル足らずの助が渕はこうした謎〔なぞ〕を秘めたまま、今も無気味に静まりかえっています。 

助が渕名前の由来イラスト


仁淀川…によどがわ。春野の西を流れる一級河川です。今回の話の舞台となった森山は仁淀川に隣接しています。

じゃかご…蛇籠。筒の形に編んだ籠に石などを詰めたもので、かつての護岸工事などに使われていました。

ほうぼう…土佐弁で「あちこち」という意味です。

 

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