市役所踊り子隊に「移住者枠」がある!?
それは、高知へのよさこい移住をして4年目(すなわち、これを書いている現時点からすると昨年)の秋頃だった記憶があります。その年のよさこい祭りが終わり、しばらく後に開催された「よさこい移住者交流会」での一口情報でした。
「高知市役所踊り子隊に移住者枠がある!?」
えっ、何その素敵な枠の存在。知らなかった…。自分の情報収集力の無さを恨みました。ここまでよさこいをやってきて、そんな重要な情報を取りこぼしていたとは…。
とにかく、その日から、翌年のよさこい祭りの自分の目標が「高知市役所踊り子隊で参加すること」に明確に固定されました。
何としても高知市役所踊り子隊で踊らせていただこう。
よさこいの真髄を知りたい
よさこい移住をした人間にとっては、高知への移住後も高知よさこい祭りそのものへの興味は膨らむばかりでした。そうであれば、高知よさこい祭りを形作ったものに触れてみたいと思うようになるのは必然です。
具体的には、第1回よさこい祭りから一度も休まず参加している、よさこい祭りと共に歩んできたチームの一つ、あの「高知市役所踊り子隊」でよさこい祭りに参加してみたいと思うのは必然なわけです。
例えば、もし仮に、よさこい祭りに教科書があるのであれば、これまでのよさこい祭りへの参加しがてら、ある程度はざっくりと読み、よさこい祭りが分かってきたかと思い込んでいたところ、今一度、よさこい祭りの教科書の1ページ目を味わって読む機会が与えられた、と、そのような感覚です。伝わりますでしょうか。
そもそも、高知市役所踊り子隊の体験をせずに、よさこい祭りの何を語れるというのか! 短い人生の中、よさこい移住という行動を起こした自分にこそ課せられた宿題ではなかろうか!
そのような自分の、よさこい祭りに対する食い気味な部分を含んだ参加動機が、高知市役所踊り子隊移住者枠が設定された趣旨に合致しているのかどうかはともかく、思い立ったらとにかく飛び込もうと、自分のひと夏の市役所チャレンジが始まったわけです。
よさこいが織り成す「多様性」
よさこい移住をし、よさこい祭りと関わっていく中で、改めて感じたことは、何よりも「多様性」の大切さでした。
法律家(高知市内法律事務所勤務)としての職業柄、「多様性」を支える個人主義や価値相対主義というキーワードは、大原則の理屈として理解しており、既に語り尽くされている概念であるものの、自分自身の感情の部分で色濃く、それこそ魂のレベルで「多様性」の大切さを認識するような具体的な対象は、よさこい祭りに出会うまでは無かったのではないかと思います。よさこい祭り以外にも「多様性」のお手本となる何かが自分の目の前を通り過ぎて行ったことはあったかもしれませんが、よさこい祭りを取り巻く諸要素が、自分の心に響いたインパクトとしては、かなり大きかったのだと思われます。
今回、高知市役所踊り子隊に参加して、よさこい祭りが織り成す「多様性」の大切さがより一層理解できました。
自分がこれまで踊ってきたチームを含む、高知市役所以外のチームが、毎年違う曲や踊りを披露し、よさこい祭りを進化させてきたことに対して、伝統的な変わらない正調よさこい鳴子踊りを披露し続ける高知市役所チームとの質的な差異が存在することで、よさこい祭りが織り成す「多様性」の意義や価値がさらに深まっており、人々の感受性を刺激しているのだということがよく分かりました。
各競演場や演舞場での路上の観客の方々は、多くのチームの演舞を、「このチームはどのようなチームであろう」「このチームは今年どのような踊りだろう」などと新しい変化に富んだものを、それこそ初めて開けるプレゼント箱の中身を期待するかの如く観ていると思います。なおかつ、よさこい祭りのフラグシップモデルとでも呼べるような受賞チームなどには、観客の方々は、より多くの期待を込めて観ているのであろうことは想像に難くありません。そのような最中に、高知市役所踊り子隊が、観客の方々の目の前を演舞しながら通り過ぎていく時には、会場の空気がある種緩和されるかのような印象がありました。「ああ、お馴染みの安定の」といった意味での。高知市役所踊り子隊以外のチームを観ていた期待感から来る緊張感に対する程よい緩和の効果が高知市役所踊り子隊の踊りにはあったように思います。
当然、観客の方々には正調よさこい鳴子踊りの振り付けを知っている方も多く、高知市役所踊り子隊が演舞する時には、手振りだけでも正調よさこい鳴子踊りの振りを一緒に踊ってくださったり、中には、正調よさこい鳴子踊りに直接参加してくる方までいました。
そこでは、「いつもの」といった、進化・変化が取り巻いている環境内に一点存在する、(どのような踊りが観られるかという)予測可能性が担保された従来型の、いい意味で枯れた演舞が披露されるわけです。そうすることによって、高知市役所踊り子隊は、よさこい祭りの多様性を際立たせる、裏方的でありながら主人公であるかのような存在であると理解でき、実感できました。
そのような役目を担う高知市役所踊り子隊への参加を、自分の人生における数々の可能性の中から選択し実現できたことを誇りに思います。
あの時のあの競演場でのあの雰囲気やあのお客さんの視線や笑顔とかノリとか、いまだに思い浮かびます。
「よさこいやっててよかった!」
鳴子を気持ちよく鳴らす
正調よさこい鳴子踊りを踊ること自体においても、一回一回の鳴子を納得できる形で気持ちよく鳴らせるように練習から意識していきました。
鳴子が気持ちよく鳴らせて、かつ、見栄えもよく鳴らすためには、自分が認識している以上に、手の指の使い方、手の平に入る力加減、手首の動かし方や力加減及び可動具合の確認等の習慣付けを、鳴子の鳴らし方が上手になりたいという目標の下、意識の掘り下げ(≒工夫)をしていかないと実現できないものであることがよく分かりました。
そして、練習中や本番中含め、高知市役所踊り子隊の皆さんとの鳴子の音が一つに合わさる時には、自分の鳴子から全員分の大きな音が発せられているのではないかという、勘違いだと分かっていながらの錯覚をあえて楽しむこともありました。
この「鳴子を鳴らす」という動作そのものに楽しみを見いだせるのは、高知よさこい祭りの伝統ならではの良い部分であるということがこの夏の体験で、改めてじっくり理解できました。
鳴子を納得できる形で気持ちよく鳴らせることの素晴らしさは、もっともっと知られていいのではないかと思いました。
結果として、上述したような事柄を実感できた上で高知市役所踊り子隊に参加できたことから、自分のよさこい経験値がまた一つ上がったように思います。
市役所踊り子隊「別隊」の魅力
高知市役所踊り子隊の運営の方々のご厚意から、せん越ながら、高知市役所踊り子隊の「別隊」にも飛び入り参加させていただきました。主に高知市役所踊り子隊の隊列の後ろに配属されている、あの別隊です。
一番感銘を受けたのが、別隊の踊りにはお手本としての正解が無いということでした(そのような理解はもしかしたら、やや間違っているかもしれませんが)。
もちろん、振り付け自体はある(おおよそ、正調よさこい鳴子踊りの振り付けの内より3パターンを抜粋したもの)のですが、どのように踊るかについては、個々人の感性に委ねられているということのようなのです。
100人いれば、100通りの別隊の踊りがあるそうです。一人一人の踊りが存在するという多様性の肯定が暗黙の了解となっているわけです。ここでも出てくる「多様性」!
一人一人の踊りが多様であると言いながらも、別隊全体の調和の良さと粋さは既に公知の事実なわけで、さらには、別隊の存在が高知市役所踊り子隊全体の存在感をより引き立たせていると思います。
そうすると、「もしかしたら、よさこい祭りの真髄は高知市役所踊り子隊の別隊にある!?」などと、真理に気が付いたかの如く、祭り後も一人でテンションを上げていました。
そのような別隊への参加経験ができて、もう、本当に「よさこいやっててよかった!」
全力でよさこい人生を楽しむ
誰しも、人の集まる社会で生活をしていると、得てして、異なった価値観に対する拒否反応から、排他的な気持ちになることがあるかもしれません。しかし、よさこい祭りが示してくれている多様性が生み出す発展可能性や価値を目の当たりにしてきた者としては、せっかくですから、よさこい祭りから得た感覚を今後の生き方や考え方にも反映させていきたいと思います。
よさこい祭りは、原則として、誰しもが等しく楽しむことができ、誰しもが排斥されず、むしろ、絶対的な価値観とか独善的なものは、時間がかかったとしても自然と淘汰されていく仕組みになっていると確信しています。
自分自身としても、よさこい祭りの仕組みが極めて優れていることで、社会のバランスを再確認させてもらえるといった社会的価値をも、よさこい祭りに見いだしています。そのような理解の延長線上で、これからのよさこい人生を楽しむことにこだわっていきたいと思います。
よさこい移住は自分にとって、自身の人生の旬を見つけるための旅というか、勇気の発揮というか、自分に課した課題というか、そのような複合的な意図の下で行った人生の舵取りです。
数多の選択肢の中から自分自身のための人生を切り取ることは、自分自身でしか出来ないのですから、狭い価値観に捕らわれることのないよう、一人のよさこい人として、適正かつ妥当かつ旬な生き方を、今後も絶えず探していけたらと思います。そして、そのために、よさこい祭りから得られるエネルギーを適宜補充していきたいと思います。
これまで通り、都合が許す限り、高知県内だけでなく、高知県外に広がるよさこい祭り、よさこい祭り関連イベントなどに参加していけたらと思います。
人間らしさが残り続ける人の祭りであり、自由と制約とのバランスの均整が極めて良くとれている高知のよさこい祭りが、今以上に、文化的にも社会的にも価値ある祭りとして信認され、世間から認識されるよう期待するとともに、益々の発展をお祈り申し上げ、かつ、自分は自分でできることを地道に誠実に続けていこうと思います。
「ちゃんとやって、楽しむぞ!」