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文化財情報 史跡 長宗我部元親墓

指定

高知県指定 史跡 指定年月日 昭和28年 1月29日

名称

長宗我部元親墓

所在地・所有者

高知市長浜

写真

長宗我部元親の墓の画像
長宗我部元親墓

解説

 桂浜・浦戸へ通ずる道のバス停留所から北へ約100m、長浜天甫寺山の南斜面に木立に囲まれてたっている。
 長宗我部元親は戦国大名として全国に名を馳せた武将であった。1539(天文8)年長岡郡岡豊[おこう]城に国親の長男として生まれる。1560(永禄3)年国親が本山茂辰[しげとき]と長浜で戦ったとき、元親は初陣し、戸の本の合戦で武勲をたてた。父国親の死後、1563(永禄6)年、本山氏を朝倉城から追い、1569(永禄12)年に安芸氏を、1571(元亀2)年に津野氏を降し、1575(天正3)年一条氏を四万十川に破り、安芸郡東部を平定して土佐を統一した。ついで四国制覇の戦いをすすめ、1585(天正13)年四国を平定したが、間もなく豊臣秀吉の征討によって退敗し、土佐一国を安堵された。以後秀吉のために献身的な奉仕を続けることとなる。1586(天正14)年秀吉の命により豊後の大友氏救援のため長男信親とともに出陣し、戸次[へつぎ]川(大野川)畔で島津軍と戦って敗れ、信親は家臣700人とともに戦死した。元親はようやくのがれ、日振[ふぶり]島をへて帰国した。長宗我部の継嗣問題は内訌を生み、一族の吉良親実・比江山親興らは死を命じられた。一方、元親は居城を岡豊から大高坂へ、さらに浦戸へと移し、検地の実施、掟書の発布など領国経営の体制をかためていった。また、その間秀吉の命で小田原参陣、文禄・慶長の役と戦いに参加した。
 1599(慶長4)年4月初旬、元親は病気療養のため盛親を伴って上洛し、伏見の邸に入った。4月23日豊臣秀頼に謁見したが5月になって病気は重くなり、5月19日61歳の生涯を終えた。遺言により5月20日天龍寺で火葬にし、遺骨は土佐へ送られ、天甫寺山に葬られた。