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歴史情報 堺事件烈士顕彰碑
堺事件
「堺事件」 とは,慶応4年(1868)2月15日,新政府の命令により泉州堺の警護を行っていた土佐藩兵が,突然上陸してきたフランス海軍の水兵を銃撃したことによって起こった一連の事件を指します。
フランス側に11人の死者が出たことにより,新政府は,土佐藩側に賠償金の支払いと発砲した藩士20人を処分することを命じました。同年2月23日,土佐藩士の切腹は11人で中止となり,生き残った9人は土佐に帰され,幡多地方へ流刑後,恩赦となりました。
切腹した11人の墓は,宝珠院(大阪府堺市)にあり,国史跡 「土佐十一烈士墓」 となっています。
烈士顕彰碑
切腹した土佐藩士11人のうち,3番目に切腹した池上弥三吉光則(いけのうえ やそきち みつのり)と,8番目に切腹した森本茂吉重正(もりもと もきち しげまさ)は高知市大津地区の出身だったことから,昭和42年(1967)に明治百年を記念する行事として当時の大津村(現高知市大津)が2人の所縁地と思われる場所に,それぞれを顕彰する石碑が建立されました。
顕彰碑の表面には「堺烈士 〇〇〇〇〇(それぞれの名前)碑」の文字が,また,裏面にはそれぞれの辞世の句と「明治百年記念 大津村」の文字が刻まれています。
(1) 池上弥三吉光則 碑(いけのうえ やそきち みつのり)
・ 建立場所 高知市大津:関地区
・ 辞世の句 皇国の為にわが身を捨ててこそ茂るむぐら道開きすれ
(2) 森本茂吉重正 碑(もりもと もきち しげまさ)
・ 建立場所 高知市大津:船戸地区
・ 辞世の句 人こころ曇りかちなる世の中に清き心の道開きせん
顕彰碑の移設
【移設の経過】
二人の顕彰碑は,昭和 42年(1967)に明治百年を記念して当時の大津村によって建立され, 以来「堺事件」を顕彰するための歴史資産としてその役割を果たしてきました。しかし,環境の変化や石碑の老朽化等,時代の移り変わりによって様々な課題も生じてきていたことから,今回の移設の運びとなりました。
【移設地】
当初の建立地は,二人の烈士のゆかりの地ということで,個人の所有地であったことから,今回の移設では大津地区内にある市有地へ行いました。(右地図参照) 当該地は昭和28年(1953)に,当時の大津村によって忠魂碑が建立された場所で,その敷地内には二人の墓碑も建立されています。また,大津地区コミュニティ推進市民会議のみなさんが設置した「堺事件」の説明看板もあることから,顕彰碑の移設地としてふさわしい場所であると言えます。
【今後の顕彰】
「堺事件」は幕末維新の動乱の中で起こりました。堺の治安維持という藩命に殉じた藩士たちの無念や,残された家族及び親族の苦労や心労は想像を超えるものであったことと思います。そして,これらの尊い犠牲のもとに,明治維新という日本史上における大変革が成し遂げられ,我が国は新しい近代国家へと生まれ変わり,アジアで初めての立憲国家となることができたことを,我々は忘れてはなりません。今後はこの地におきまして,堺烈士顕彰碑の保存を通じて,「堺事件」の正しい歴史認識の普及に努めてまいります。
移設先
高知市大津乙93-1
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