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天文8年(1539年)、岡豊城主・国親の子として誕生した。少年時代はおとなしい性格で、『姫若子(ひめわこ)』と呼ばれるほどだった。父・国親も戦場の用に立つとは思っていなかったが、永禄3年(1560年)5月の初陣で周囲も驚くような活躍をして勝利へと導いた。
初陣の翌月に死亡した父のあとを継ぎ、15年で土佐を統一、その後10年をかけて天正13年(1585年)に四国の大部分を平定した。しかし、同年8月には豊臣秀吉の四国征伐の前に降伏し、土佐一国の領有を許された。翌14年、豊後戸次川の戦いで長男・信親を失うと、跡継ぎ問題など治世の乱れも見せたが、内政面では領内の検地を進め長宗我部検地帳を作り、長宗我部元親百箇条などの法令を制定し、居城を浦戸へ移転し城下町を建設した。
元親は早くから都の文化の吸収につとめ、一門の者に習わせたといわれている。慶長4年(1599年)5月19日、伏見の邸にて死亡。享年61歳。
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長宗我部元親ゆかりの地