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歴史万華鏡コラム 2019年5月号
高知市広報「あかるいまち」より
追手筋は“学問通り”
高知城の追手門から東に延びる追手筋。通りの北側に面した土佐女子中学高等学校前に「北會所竝教授館址(きたかいしょならびこうじゅかんし)」という碑がある。 北会所は郡(こおり)奉行所をはじめ山方(やまかた)、普請方(ふしんかた)、浦方(うらかた)などがある役所のこと。
そして教授館(こうじゅかん)は、宝暦九(一七五九)年、八代藩主・山内豊敷(とよのぶ)によって開設された土佐藩最初の藩校である。 山内家に仕える武士なら身分を問わず入学して学べたが、封建道徳に偏っていたともいう。土佐清水市中浜に生まれ世界を見てきたジョン万次郎も、この教授館に来ている。
今から約一八〇年前の天保十三(一八四一)年、十四歳の時に漁師仲間四人とともに漂流し、米国の捕鯨船に救出された万次郎は、二度捕鯨船員となり、 長い重労働の航海の中で、人種や国境を越えて働き学んだ。そして、十一年ぶりに土佐に帰って間もなくの嘉永五(一八五二)年秋に教授館に出仕したのである。
土佐の城下を知らないまま世界へ出ていた万次郎は、この通りをどんな思いで歩いたのか。教授館ではどんな様子で武士たちの前に立ったのか。そんな思いを寄せる。
万次郎に興味を持っていた幕末の参政・吉田東洋は同年作成された万次郎らの取り調べ報告書『漂客談奇(ひょうかくだんき)』の序文に、 「我が国は外交を断っており、辺境の土佐藩に至っては情報は限られている。漂客ら(万次郎ら)は地球を回って見聞多く、その情報は我々の不足を補ってくれる」 と書いている。やがて、東洋は文久二(一八六二)年、時勢に合った藩校「文武館(ぶんぶかん)」(のちに致道館(ちどうかん))を高知城西側に開設し、 「教授館」は約百年の歴史に幕を閉じた。
文武館では「文武は車の両輪の如し」と文武両道をめざしたほか、蕃書(ばんしょ)(洋書)や砲術など新しい時代に即した学術が進められた。 なお、県立高知追手前高等学校には教授館蔵書の蕃書『ドゥーフ・ハルマ』(蘭日辞書)が伝わっている。
「隣はアメリカ」という土佐人の感覚は万次郎の影響だろうか。中高生や学生が行き交う追手筋界隈にある進取の気質は、幕末から続いている。 “学問通り”とも言える追手筋を歩く学生の姿がまぶしい。
高知県立坂本龍馬記念館 学芸課長 前田 由紀枝
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。