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歴史万華鏡コラム 2019年7月号
高知市広報「あかるいまち」より
元 三春藩主松下長綱親子の墓
筆山の頂上へ向かう歩道の脇に三基の大きな墓石があるのをご存じだろうか。現在の福島県三春町にあった三春藩の藩主松下長綱(ながつな)とその妻子の墓である。なぜ東北の大名の墓が土佐にあるのだろうか、今回はその謎をひもといてみたい。
松下長綱は、若き頃の豊臣秀吉が仕官したという松下之綱(ゆきつな)の孫として、慶長十五(一六一〇)年に生まれ、寛永五(一六二八)年に三春藩主となった。同十年には土佐藩二代藩主山内忠義の長女喜与姫を妻に迎え、同十五年には長男長豊が誕生。大名として順風満帆の日々を過ごしていた長綱だが、正保元(一六四四)年四月に突如乱心し、他家や自身の家来を斬殺してしまう。そのため、長綱は改易のうえ、妻の実家である土佐山内家に預けられた。
江戸幕府から長綱お預けを命ぜられた山内忠義は、長綱の配所を久万に決め、八畳敷の居間に風呂・トイレが付いた屋敷を新築させた。奇しくも、同所は慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原合戦で西軍に与した大名の毛利勝永が配流された地でもあるが、長綱は快適に暮らしたという。
長綱配流後も子息長豊は、成人した折に旗本として取り立てるという約束のもと、土佐藩の江戸上屋敷で母喜与姫とともに暮らしていた。しかし、明暦三(一六五七)年に長豊が両親に先立ち死去する。孫の死を悼む忠義は遺骸を土佐へ送致し埋葬させ、喜与姫も土佐へ帰国した。その翌年には長綱自身も久万の配所で帰らぬ人となり、土佐で埋葬された。一人残された喜与姫は寿光院と名を改め、貞享二(一六八五)年に死去するまで高知城西之丸において余生を過ごした。もちろん、長綱・長豊の墓の近くに埋葬された。
右の所縁から松下親子の墓が土佐に残されたのである。なお、三春にある松下家菩提寺州伝寺(ぼだいじしゅうでんじ)には長綱・長豊親子の供養塔が残されている。
最後に宣伝だが、歴史民俗資料館では、長綱や毛利勝永など、土佐に流された人物を紹介する企画展「遠流の地 土佐」(令和二年一月十日~三月八日)を開催。乞う、ご期待!
高知県立歴史民俗資料館 学芸員 石畑 匡基
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。