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歴史万華鏡コラム 2020年2月号
高知市広報「あかるいまち」より
監獄署の隣に学校を移転?
戦災で県庁公文書が焼失した高知県にとって、明治期の県政を明らかにするには国立公文書館(東京都千代田区)の利用が欠かせない。
今回は、国立公文書館の資料を用いて、明治十七(一八八四)年頃に城下町における公共施設の移転整備が、どのように検討および実施されたのか紹介する。
まず、県庁と監獄署が高知城の北西(現在の城西公園)にあったことをご存じだろうか。同地に高知刑務所(昭和五十一(一九七六)年に布師田へ移転)があったことを記憶している方は少なくないであろう。また、県庁は現在丸の内にあるが、当初は藩校致道館(ちどうかん)を利用して、お城の北西に設置された。
国立公文書館が所蔵する「高知県庁移転ノ件」(明治十六年十二月付)には、囚人が年々増加し、監獄署が狭隘(きょうあい)化したため、増築に向けて隣接する県庁・警察本署を移転する計画案が記されている。監獄署の移転は囚人の移動が難しく、「監獄で火災があれば県庁にも被害が及んでしまうため望ましくない」、「県庁を高知市街中央に移して不便を避ける」など、監獄署ではなく県庁等を移転する理由が挙げられている。
そして、県庁と警察本署を新築する予算はなかったため、県立中学校と師範学校(男女別)の校舎を県庁舎とし、学校は従来の県庁舎を代用する移転入替案に落ち着いた。
この計画は、国から許可が下り、明治十七年五月には、県庁と警察本署が丸の内に移転した。その後、学校は監獄署の隣に一旦移るが、明治十九年には追手筋(現在の追手前高校)に移転する。これにより、当初の監獄を増築するための条件は整い、お城の北西には監獄署のみが残った。
県庁が現在の場所になぜ移ったのか、学校が監獄署の隣に移転された経緯など、公文書から明らかになる事実(歴史)は多い。また、過去の都市計画を現在に活かすことは重要である。自分が住むまちの歴史が残り、これからの「あかるいまち」の参考になるよう、公文書の保存・管理が望まれる。
高知県立高知城歴史博物館 高木 翔太
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。