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歴史万華鏡コラム 2020年3月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

高知城跡北曲輪(きたくるわ)-お城の北側の様子-

3月号写真1
●高知城跡北曲輪で確認された溝跡

3月号写真2
●三ツ葉柏文鬼瓦

長く高知に住んで高知城跡に行ったことがある人でも、高知城跡のある丘陵(きゅうりょう)北側が江戸時代に城内であったことを知る人は少ないかもしれない。現在、高知警察本部などがある大高坂山北側の平地部分は北曲輪と呼ばれ、江戸時代の絵図には「御作事場」「御米蔵」「御武具蔵」など藩の施設、その北東には「北門」と「番所」が描かれている。さらに北側には堀としての役割を果たした江ノ口川が流れている。

寛文年間の絵図では内堀の中で北曲輪北側の江ノ口川の部分のみが石垣となっており、「はね」と呼ばれる護岸のための突出した石積みも描かれている。この「はね」は現存しており、高知城橋のたもとで見ることができる。江ノ口川は江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。

この北曲輪で行われたこれまでの発掘調査では、絵図に描かれていた江戸時代の溝跡(みぞあと)などが確認されたほか、明治七年の高知城を公園化した際の廃棄土坑(どこう)も多数見つかった。廃棄土坑からは多量の瓦が出土し、藩主山内家の家紋である三ツ葉柏文(かしわもん)の鬼瓦や陶器製の鯱瓦片(しゃちがわらへん)も出土した。

また、平成十九年には高知城下町にはこれまでないと言われていた古墳時代の遺構(いこう)が確認され、非常に注目された。その後も高知城周辺の平地部分で、平安時代から室町時代にかけての大規模な溝跡などが確認され、江戸時代以前から高知城周辺が利用されていたことも分かってきており、「お城」以前の歴史が少しずつ明らかになってきている。

高知県文化財団埋蔵文化財センター 専門調査員 徳平 涼子

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。