本文
歴史万華鏡コラム 2020年5月号
高知市広報「あかるいまち」より
土佐の製紙産業を支えた三椏(みつまた)
和紙の三大原料として挙げられるのは、楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)である。この中でも三椏は製紙原料としては新参である。新参ではあるが、高知と三椏との関係は深い。
三椏が紙の原料として広く使われたのは江戸時代からで、土佐においても山間地帯に古くから自生し、文化三(一八〇六)年にすでに抄紙(しょうし)されている。ただ、当時は原料を煮るのには木灰・石灰を使用しており、これにより紙質が悪く、楮紙と比べて下位に位置付けられていた。
しかし、明治に入ると、木灰・石灰よりもより強い働きをする苛性ソーダを煮熟剤(しゃじゅくざい)として使用することにより、三椏が高級紙としての真価を発揮することになる。なめらかで光沢があり、透かし模様も入れることができる特徴があり、栽培も容易であることから、紙幣用原料として採用されるに至ったのである。
高知における三椏栽培の起源は明治十七(一八八四)年といわれる。三椏の有用性を見抜いた当時の伊野町の吉井源太氏が、静岡県から直(じか)まきの可能な三椏の種を移入したことに始まる。その後県下各地に広まり、明治二十三・二十四年にはほとんど全県下で栽培され始め、紙業の隆盛とあいまって土佐産業の発達に寄与した。三椏が深い渓谷や山岳の日光の終日直射しない湿潤な場所を好むことからも、山間地帯の重要な物産としての地位を確保していった。
数値上も突出している。例えば、昭和二十六(一九五一)年度における生産高(黒皮換算(くろかわかんざん))は、全国一位を占めており、全国比四十一%超を誇っていた。高知の自然条件と先人たちの熱心な活動がうまく合致した成果が伺える。
現在では和紙の生産が減ったことに加えて高齢化に伴う後継者難も重なり、生産量は減少の一途をたどっている。しかし、紙幣の他にも、図引紙(ずびきし)や圧写紙など、三椏原料の新しい紙がかつては多く開発され、それらは現代の機能紙と呼ばれる紙につながっている。この時開発された紙は、その後の高知県紙業界を支える元となったのである。
いの町紙の博物館 田邊 翔
広報「あかるいまち」 Web版トップ > 歴史万華鏡コラム もくじ
※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。