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歴史万華鏡コラム 2020年6月号
高知市広報「あかるいまち」より
秋葉神社
高知市中心部を歩いてみると、ビルの間や路地の片隅に意外に多くの小さな社や祠(ほこら)が残っていることに驚かされる。その中でもひときわ数が多いのが秋葉神社の小祠(しょうし)である。分布の濃密な上町や旧下町周辺には、現在でも写真のような秋葉神社の小祠が少なくとも数十は残っている。
これら秋葉神社群の一つ旧水通町の秋葉神社(現上町一丁目)について『高知県神社明細帳』などには、「土佐では火事が打ち続くため、宝暦元(一七五一)年に秋葉神社の『火防の札』が藩の役所からお城下の各町や各村々に配られ、地域の人々はそれを小祠に入れ道路のそばなどで祀(まつ)った」という記述がある。
秋葉神社というと、県内では旧仁淀村(現仁淀川町)別枝(べっし)の秋葉神社が名高く、毎年早春の二月十一日に行われる大祭では、勇壮な鳥毛(とりけ)ひねりや太刀踊りが披露され、県内外から多くの観光客を集めている。
ところで『仁淀村史』は、現仁淀川町別枝の秋葉神社について、秋葉山本宮秋葉神社(現静岡県浜松市)からご神体がもたらされたのを文治元(一一八五)年と記すが、このご神体はその後ずっと地元の法泉寺や市川家などで祀られ、別枝の産土神(うぶすながみ)として秋葉神社が創建され、ご神体がこの神社に移されたのはかなり後の寛政六(一七九四)年のことであるとしている。従ってお城下の各町や村々に藩の役所によって秋葉神社の札が配られたころには、まだ別枝の秋葉神社はなかったことになる。
お城下の秋葉神社群のルーツをはっきり記す資料はないが、これらは十八世紀半ば宝暦年間に配られたお札につながると考えられる。そして、そのお札は藩権力によって仁淀川町の秋葉神社ではなく、秋葉山本宮秋葉神社など土佐国外からもたらされ、配られたのではないだろうか。
十八世紀といえば、高知城天守を一度は焼亡させた享保の大火など、千軒単位の家々を焼き尽くす火事が何度も発生した時代であった。荒れ狂う炎を前に、人々は防火の神(秋葉神)のお札を祀る小さな祠に火伏を託すしかなかったのだろう。
オーテピア高知図書館 坂本 靖
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。