ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 組織一覧 > 広聴広報課 > 歴史万華鏡コラム 2022年07月号

本文

歴史万華鏡コラム 2022年07月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

孤哀女婉泣植焉(こあいじょえんないてこれをたつ)

7月号写真
●婉の母・池きさの墓

筆山の東南側に位置する高見山の中腹に、野中兼山一族の墓所がある。兼山の墓のほか、婉(えん)、婉の母・池きさなど一族の墓石が並ぶ。墓碑はいずれも兼山の四女、野中婉が整えたものだ。

野中兼山は江戸時代前期、土佐藩家老として財政の立て直しに奔走、独創性に富んだ施策で土佐藩確立に努力した。しかし、その厳しすぎる政策に反発する者も多く、寛文三(1664)年、三十年にわたる政権の座を追われ、香美郡山田の隠棲地で急逝、四十九歳の生涯を閉じている。

翌年、父の追罰により、わずか四歳の婉をはじめ子女八人とその母四人の遺族は宿毛へ配流、以後四十年を竹矢来の獄舎に幽閉される。兼山の血を絶つため、門外一歩を禁じられた遺族に赦免が訪れるのは、最後の男子末弟・貞四郎の自害によってである。元禄十六(1703)年、幽獄を出た婉は四十四歳になっていた。

本山町出身の作家・大原富枝は、幽囚の四十年をむなしくした婉を、結核によって外の世界から拒まれた自らの青春に重ね合せた。誇り高く生き抜いた婉の生涯を一人称の独白体で描き切り、小説『婉という女』で毎日出版文化賞、野間文芸賞を受賞している。

高見山の野中一族の墓所には、中央に兼山の墓があり「野中傳右衛門良繼(のなかでんえもんよしつぐ)之墓」と記されている。儒学を信奉した父のために戒名を避け、婉が生前の名前を彫ったものだ。入口の右手に婉の墓、反対側に生母・池きさの墓がある。

婉の墓には「野中良繼之女婉之墓」とあり、きさの墓には「孤哀女婉泣植焉」と刻まれている。野中兼山の娘であることに誇りを持ち、たった一人、泣きながら一族の墓碑を整えた婉の心を思う時、胸に迫るものがある。

墓所には「婉の会」による懇切な説明板が設置されていて、初めて訪れる人にも優しい。

本山町立大原富枝文学館 学芸員 大石 美香

広報「あかるいまち」 Web版トップ > 歴史万華鏡コラム もくじ

※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。