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歴史万華鏡コラム 2023年03月号
高知市広報「あかるいまち」より
吉井源太とコッピー紙
いの町(旧伊野村)の土佐藩御用紙漉の家に生まれた吉井源太(1826~1908)は、明治期において「土佐紙業界の恩人」と呼ばれる。今回は源太の開発した紙の一つである「コッピー紙」を紹介していきたい。
「コッピー紙」は、ガンピという植物を原料とする和紙で、にじみ止め効果と、薄くて紙面が滑らかな特徴を持つ。「コッピー」とは、文字通り「コピー」と同義であるが、当時は特殊なインクで書かれた複写原版をぬらして数枚の紙を重ね、圧写する方法であったため、別名「圧写紙」とも呼ばれる。この技法は、蒸気機関で知られるイギリスのジェームズ・ワットの発明である。
コッピー紙創出のきっかけは、源太が1877(明治10)年の第一回内国勧業博覧会にガンピを用いた薄様大判紙を出品し、その紙が輸出用コッピー紙として最適であると評価され、最上位の龍紋賞(りゅうもんしょう)を受賞したことに始まる。この後も、ニューオーリンズ、シカゴ、フランスで開催された万国博覧会に、源太らは欧米諸国で必要とされる紙を出品し、賞を獲得した。一般にコッピー紙は一度に8枚を複写できたとされているが、源太の開発したものは改良の結果、16枚を複写できたという。
コッピー紙はさらに、その後開発された謄写版(通称ガリ版)原紙用紙へと発展し、いの町の一大産業となった。
このコッピー紙に代表されるように、「薄くて強い紙」が土佐紙の大きな特徴の一つとなる。当時の新しい社会が必要とする紙を作ることが求められた時代、源太はまさにそのための技術改良を積極的に進めた人物であった。
また、薄くて強いという一見矛盾した紙をすくには相応の技術が必要だが、一定の品質を保ちつつ、大量の紙をすく技術や環境が土佐には備わってきており、それらの需要に応えることができたことも大きい。それは後に「紙業王国・土佐」を築くことになった。
これらの紙は昭和40年代以降、新しい印刷機器の普及により急速に姿を消していく。文字の複写としての役割は終えてしまったが、現在では版画などの芸術分野で使われており、一時代を築いた源太らの事績は現代でも生き続けている。
いの町紙の博物館 学芸員 田邊 翔
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。