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歴史万華鏡コラム 2023年04月号
高知市広報「あかるいまち」より
掛川神社の三つ葉葵紋
●掛川神社拝殿正面の庇下
延宝9(1681・天和元)年8月23日、土佐藩四代藩主山内豊昌は、土佐郡薊野村(現・高知市薊野)の陽貴山(ようきざん)國清寺(こくせいじ)見龍院(けんりゅういん)を訪れた。境内に新築された徳川将軍家代々の位牌殿に参拝するためである。巳上刻(午前10時頃)に見龍院に到着した豊昌は、位牌殿参拝に際して、各種献上品のほか、藩祖山内一豊が賜った家康自筆書状を奉納した。参拝には、深尾主水(ふかおもんど)ら十余名の重臣が付き従い、一行は参拝の後、隣接する天王宮に参詣。雑煮を食すなどし、未刻(午後2時頃)に帰城したことが、『豊昌公紀』に記されている。
この位牌殿は、前年の2月着工、この年4月に竣工したもので、家康から家綱まで四代の徳川将軍の位牌が納められた。豊昌奉納の家康書状はその後「御神体」として祭られることになる。
見龍院が別当を勤めた天王宮は、二代藩主山内忠義が、寛永18(1641)年、山内氏の旧領である遠州(現・静岡県)掛川から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して造営したもので、産土神(うぶすながみ)として歴代藩主の崇敬を受け、明治元(1868)年には改称されて掛川神社となった。
位牌殿はその後どうなったか。高知県立図書館所蔵『土佐郡神社明細帳』の掛川神社の項によれば、文化12(1815)年、十二代藩主山内豊資によって、掛川神社西の新社殿に東照大権現(とうしょうだいごんげん)として遷祭(せんさい)され、明治元年には東照神社と改称、明治13(1880)年に掛川神社に合祭された。
現在、掛川神社拝殿正面の庇(ひさし)下(した)には、徳川家の家紋である三つ葉葵紋が刻まれている。家康を神として祭る東照宮の勧請は、全国諸藩に見られた動きではあるが、幕末の土佐藩の政治的立場を念頭にその家紋を見る時、ある種の感慨を覚えずにはいられない。
高知県立図書館 渡邊 哲哉
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。