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歴史万華鏡コラム 2023年11月号
高知市広報「あかるいまち」より
間崎滄浪邸跡
高知あたご劇場(愛宕町一丁目)から東へ歩いて2つ目の交差点に、「間崎滄浪邸跡」の石碑がある。
間崎滄浪(1834~1863年)は土佐勤王党に4番目に加盟した学者である。間崎家は代々、幡多郡間崎村(現四万十市)の庄屋を務めていたが、滄浪の父・房之助は高知城下に出て医業を開業した。
滄浪は幼少時から頭が良く、細川潤次郎・岩崎馬之助と並んで「三奇童」と呼ばれた。平尾道雄著『間崎滄浪』によると、3歳にして文字が読め、4歳にして孝経の文章を暗唱し、6歳にして四書五経(儒学で重要な経典とされた書物)を学び、7歳にして漢詩を作ることができたといわれる。
滄浪は17歳で江戸に遊学し、20歳の時、高知城北江ノ口村(現北本町一丁目)に塾を開いた。塾の建築は、嘉永6(1853)年7月20日に地固めを終え、24日か25日には立柱式を行った。順調に進むと思われたが、落成が近づいた9月下旬に建築費が不足するという事態が発生した。9月27日付けで知人の野村竜助に送った手紙によると、不足額は25両。建築費が増額した理由は「案外のことがでたため費用が増額になった」とあるだけで、はっきりとしたことは書かれていない。大工との交渉がまとまらなかった滄浪は、野村に25両の借金を依頼している。
なんとかやりくりをしてできあがった塾には門下生が数百人集まったといわれ、その中には中岡慎太郎、吉村虎太郎、島本審次郎ら幕末の政治運動で活躍した人物がいる。
滄浪が借金の返済に苦しんでいることは、中岡慎太郎が勘右衛門(名字等不明)に2月27日付けで送った手紙に書かれている(手紙の推定年代は文久元〔1861〕年)。師の苦労を見かねた慎太郎は、吉村虎太郎と一緒に衆議講(事業を行うために必要な費用を募金すること)を行っている。
滄浪と慎太郎ら師弟が熱く議論を交わしたであろう場所は、今ではひっそりとした住宅街となり、その中に静かに石碑が建っている。
北川村立中岡慎太郎館 学芸員 豊田 満広
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。