本文
歴史万華鏡コラム 2024年02月号
高知市広報「あかるいまち」より
辻売りの習俗
さまざまな人間関係の中で、親子関係は強いつながりを持つものと考えられるが、日本では実の親子以外に擬制的な親子関係を結ぶ仮親の習俗が存在してきた。取上げ親、名付け親、烏帽子親など、その多くは実の親子以上に強いつながりを持つといわれている。
高知県では、子どもが病気になったときや生まれつき体が弱い場合、辻に子どもを連れて行き、最初(地域によっては三番目)に通り掛かった人に仮親になってもらう「辻売り」と呼ばれる習俗が存在した。病気の子どもの代わりに辻に子どもの着物を持って行くこともあった。名前を付け替え、呼び名として使われる。仮親と子の関係は一生続き、子は仮親に盆や暮、正月などにお土産を持って挨拶に行くという。
辻売りがいつ頃から行われていたか確かではないが、江戸時代の中期には浸透していたようで、当時の日記にその様子が記されている。高知城下の豪商才谷屋に由来する『順水家記』の享保17(1732)年に「三月十八日、家君翁赤岡村弘田氏ヲ訪ふため卯刻自宅ヲ発シ給フ処、本町壱丁目ノ角ニ於て宮崎久兵衛一男子ヲ辻売にするに逢、翁に約ヲ願ヒ即之ヲ祝ヒ、名ヲ八三郎ト称ス」(県立図書館蔵)と記されている。たまたま出くわした見も知らずの人の仮親になるのであるから、この風習が広く知られ、行われていたといえるだろう。
また、神田村(現高知市神田)の弘間家には次のような話が伝わっている。「安政五(1858)年頃、神田村高座の里に銀助、別名熊次という貧しい百姓がいた。銀助八十余歳、浦戸の夜釣りの帰りに、散田という現在の三翠園界隈の辻に差しかかった時、不意に暗闇から三葉の提灯が浮び上る。同行の知友たちは闇の中に逃げ去ったが、取り残された銀助は山内幼君の辻売りを申しつけられる。それは西御屋敷の若君で、病弱であったが、熊次の『熊』の一字をとって名を改め、明治末年まで長生きしたという。銀助は弘間の名字を賜足軽に抜擢された。」
(『稿本鴨田地区史 実録編』より要約)
伝承ではあるが、身分を超えて親子関係が結ばれたと語られているのは興味深い。いつの時代も子の幸せを願う思いは変わらないということであろうか。
県立図書館 司書 古谷 留美
広報「あかるいまち」 Web版トップ > 歴史万華鏡コラム もくじ
※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。