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歴史万華鏡コラム 2024年04月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

吉田東洋と(てん)(ちゅう)事件

4月号写真
●「吉田東洋殉難の地」碑

高知市の繁華街、帯屋町商店街から北に歩いたオーテピア高知図書館の南角に、ひっそりとたたずむ吉田東洋殉難の碑。文久2(1862)年4月8日の夜、土佐藩の仕置役・吉田東洋がこの地付近で暗殺された。

この日、東洋は藩主へ『()本外(ほんがい)()』の講義を行っており、講義終わりに酒を飲んだことからほろ酔いで城を後にし、自宅へと向かっている最中に襲撃された。刺客は那須(なす)(しん)()安岡(やすおか)()(すけ)大石団蔵(おおいしだんぞう)の土佐勤王党員(192名の名簿には入っていない)であったことが後に明らかになっており、暗殺の理由は武市半平太と考えを異にする東洋を排斥(はいせき)して藩主を(じょう)(らく)させるためであった。

東洋は暗殺された後に首のみ持ち去られ、現場に残った胴体はすぐに収容されている。本来であれば、検死のため死骸はそのままにするのが作法であったが、(むす)()の源太郎の心情を(おもんぱか)り、胴体が自宅へと取り寄せられた。その後、役人が血眼で東洋の首を探したところ、九日に雁切(がんきり)河原(かわら)で発見された。ここは、円行寺、九反田と並ぶ高知城下の(きょう)(しゅ)()の一つであり、東洋の他に(おか)田以(だい)(ぞう)もこの地で梟首にされている。

雁切河原で発見された首には罪文とは別に封状が一通添えられており、封状はすぐに()付方(つけがた)へ差し出されている。目付とは今でいう司法警察の役であり、この配下で東洋暗殺の犯人捜しを行っていたのが下横(したよこ)()井上(いのうえ)()一郎(いちろう)(ひろ)()(しょう)()であった。二人は高知を出て大坂(現大阪)・京都で犯人の探索を行っていたことが土佐藩京都藩邸史料から分かっている。

しかしながら、井上は同年の8月12日夜に大坂で、弘田は11月2日に京都の伏見で、東洋と同様に暗殺されてしまう。弘田暗殺の理由は、彼が東洋一派(新おこぜ組)の残党であり、かつ、暗殺犯の探索を行っていたためであるとされる。井上に関しても同様に、探索を行っていたことが理由であると考えられる。

元治元(1864)年2月の覚書の時点で二人を暗殺した人物は中岡慎太郎との風聞もあるが、実情は不明とされている。

県立坂本龍馬記念館 学芸員 上村(うえむら) 香乃(かの)

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。