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歴史万華鏡コラム 2024年05月号
高知市広報「あかるいまち」より
高知の美術展の草分け「観工場」での土佐美術協会展
ことしは土佐を代表する絵師・河田小龍の生誕二百周年。幕末維新の激動期をつぶさに目撃したこの絵師が、高知の美術展覧会の始まりを見守っていたことは、あまり知られていない。
高知における美術展覧会の始まりは、明治29(1896)年開催の土佐美術協会展までさかのぼる(それ以前、絵師たちが活躍する公開の場といえば得月楼など料亭で開かれる書画会であった)。土佐美術協会は、明治28(1895)年に高知市で発足された美術団体で、後の土陽美術会高知支部の前身ともいえる、おそらく高知県初の公募展組織だ。同年11月28日の『土陽新聞』に第1回展覧会の会則が掲載され、翌年1月に展覧会を実施。掲載元である新聞社も、この展覧会の設立が果たす社会的意義を大いに歓迎した。
同協会の事務局は日本画家の 南部錦渓宅に置かれた。錦渓は小龍の弟子である。当時、小龍は高知を離れて京都、広島、九州などを行き来していたが、高知にいる錦渓とは手紙のやり取りをしており、高知への思いは最晩年まで強く持ち続けていた。明治30(1897)年8月25日の『小龍日記』には小龍の弟子たちが、京都から高知の「土佐美術協会」へ出品画を送ったことが記されている。遠くにいながら高知に残った弟子たちが担う高知画壇の近代化を見守っていたのである。
ちなみに、この展覧会の会場となったのが「観工場」である。観工場は明治前期、殖産興業の機運が高まる中、全国各地に建てられた商業施設だ。高知では今のひろめ市場南の四国銀行の一帯にあった旧兵営の建物を使用して明治18(1885)年に開業した。物品陳列所が置かれて、いろいろな商品が売買されたほか、兵営の建築が大きかったため、製糸場が設けられたり、高知市庁舎や市会(現市議会)の議事堂としても使用されたりと、さまざまな用途で使われたという。現在の百貨店と多目的文化施設が合わさったようなイメージだろうか。今も商店街としてにぎわいを見せるこの区域で、高知の美術展は歩み始めたのである。
県立美術館 学芸員 中谷 有里
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。