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歴史万華鏡コラム 2024年06月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

湛慶(たんけい)の仏像

6月号写真
●左から善膩師童子立像、毘沙門天立像、吉祥天立像

歴史に詳しくない方でも「運慶(うんけい)快慶(かいけい)」と聞けば、筋骨隆々の勇ましい仏像の姿を思い浮かべることができるのではないだろうか。仏師の代名詞ともいえる運慶、快慶が活躍した鎌倉時代は、千三百年を超える日本の仏像史における頂点といっても過言ではない。

その運慶の長男、湛慶が制作した仏像が、高知市長浜の雪蹊(せっけい)()に安置されている。国の重要文化財に指定されている()沙門天(しゃもんてん)立像、(きっ)(しょう)(てん)立像、(ぜん)膩師(にし)(どう)()立像の三()だ。毘沙門天立像の足(ほぞ)に墨で書かれた銘文があり、湛慶が法印(僧侶の階級の一つ)に就いていた時期に造像したことが判明している。

湛慶は運慶亡き後の一派を率いた棟梁であり、(れん)()王院(おういん)本堂(通称三十三間堂、京都市)の本尊の造像など、中央の造仏界で活躍した仏師だ。なぜ土佐に湛慶の手による仏像が伝来しているのかははっきりしないが、作風や表現の特徴から、本像は嘉禄元(1225)年頃の作と考えられており、雪蹊寺の前身である高福寺の創建時期と重なる。

さらに最近、当館が実施した調査によって、四万十市で雪蹊寺の毘沙門天立像を()(こく)したと考えられる正安4(1302)年銘の毘沙門天立像が確認されたことから、雪蹊寺の像は比較的早い時期から土佐に伝来し、模刻が行われるほどに由緒ある仏像として知られていただろうことが分かってきた。

引き締まった顔立ちと体格で冷徹な印象すら与える毘沙門天立像、端正で優雅な吉祥天立像、小首をかしげ子どもらしい愛らしさがあふれる善膩師童子立像。三軀には壮年期の湛慶の持てる技が凝縮しており、湛慶の代表作の一つである。

運慶のダイナミックな表現から大きく変化し、洗練と柔和の彫刻を作り上げた湛慶。仏像は決して言葉を発さないが、つぶさに観察することで、偉大な父の跡を継ぎながらも、自分自身の表現に挑み続けた湛慶その人の姿が浮かび上がるように思うのである。

県立歴史民俗資料館 学芸員 那須(なす) (のぞみ)

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。