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歴史万華鏡コラム 2024年08月号
高知市広報「あかるいまち」より
浦戸海軍航空隊跡の貯水槽
浦戸海軍航空隊はアジア太平洋戦争末期の昭和19(1944)年11月、飛行機搭乗員の基礎教育を行う飛行予科練習生(予科練)の航空隊として高知市池に開庁した。アジア太平洋戦争は「空の戦い」であり、搭乗員の大量・迅速な養成が急務とされ、それを担ったのが練習生であった。航空隊の中心施設は住吉池の北側にあり、兵舎や講堂など200棟近い建物が並び、敷地面積は44ヘクタール、練習生、教官など五千名以上を擁していた。
昭和20(1945)年に入って戦局は悪化の一途をたどり、「本土決戦」が現実性を帯びる中で、練習生は陸戦訓練や陣地作りが日課となる。そして7月には航空隊が解散、練習生は「本土決戦」要員となって各地の陣地に配備された。敗戦翌日の8月16日、住吉(香南市夜須町)の震洋隊の基地では111名が死亡する凄惨な爆発事故が起きたが、犠牲者のうちの29名はここから派遣された隊員だった。
戦後、航空隊跡地は国立療養所や医療センターなどへと変遷したが、周囲の山麓には、横穴壕が多数残っていた。しかし、近年の造成工事でほとんどが消滅、跡地を東から見下ろせる山の中腹に完存していた長さ58メートルの巨大貯水槽も最近なくなった。
写真の水槽は巨大貯水槽のあった山の東側の麓に残るもので、長さ11メートル、幅8メートル、深さは2メートル以上ある。いったんこの水槽に水を溜めて山腹の巨大貯水槽にポンプでくみ上げ、航空隊に給水していた。水槽の隣に台形状の構造物が残っているが、今地上で確認できる航空隊関連の遺構はこの二つのみである。
戦争末期、高知は米軍上陸の候補地とされていたことから、海岸には特攻基地、沿岸部には無数の「本土決戦」陣地が作られた。消滅したものもあるが、戦争遺跡として残存しているものもあり、本例もその一つである。近代日本は富国強兵を国是として戦争を繰り返してきた。これらの戦争遺跡はその帰結を示すものである。歴史の戒めとして後世に残していきたいものである。
平和資料館・草の家 出原 恵三
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。