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歴史万華鏡コラム 2024年11月号
高知市広報「あかるいまち」より
高知城大門の再建
高知城の正門である追手門は、もとは「大門」と呼ばれており、「追手門」と呼ばれるようになるのは、享保の大火後、天守が再建されたのと同じ延享4(1747)年からである。門から延びる通りの名も、この時「大門筋」から「追手筋」へと改称された。今回は、追手門がまだ大門と呼ばれていた頃の出来事について紹介したい。
約30年にわたり土佐藩政を牽引した野中兼山が没した翌年、寛文4(1664)年8月、大門の再建工事が始められた。これは初代藩主山内一豊により建てられた大門が「大破」したことを受けての再建である。9月には柱立て、冠木の引き上げなどが行われ、11月には工事が完了、再建の祝儀が行われた。この大門再建事業を主催したのは、前藩主で、当時すでに隠居していた山内忠義(土佐藩二代藩主)であったが、この時の再建事業には、注目される二つの出来事があった。
一つは、大門を東向きに再建しようとしたことである。忠義はこの頃、天守の修復や御城周りの土手の石垣化などを計画しており、その一環で大門の東向きへの建て直しを構想していた。忠義は一豊時代とは異なる高知城正門の新たな景観を構想していたが、幕府の許可を得られず、実現しなかった。
もう一つは、大門の石垣普請に際し、城下を舞台にした演出型の石材運搬が行われたことである。当時の史料には、春野町諸木から採られた石材は、9月6日、町中の庄屋や年寄が立ち会い、町ごとに標が立てられる中、「町中在中の者」たちによって、高知城まで引かれたとある。石材は、新川川・浦戸湾・江ノ口川を経て、城下下町の山田町(現はりまや町)で陸揚げされており、恐らく、蓮池町から高知城までは、大門筋を西へと運ばれたと想像される。町々から出された木遣りの音頭のもと、石材はにぎやかに運ばれたが、中には、兼山の土木工事で活躍した「名誉の木遣り上手」九右衛衛門なる人物も含まれていた。
この大門再建事業は、「甚だ大きなる御普請」と評された事業であったが、総じてそれは、兼山亡き後の新時代の到来を印象づける一大事業であった。
県立高知城歴史博物館 横山 和弘
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。