本文
歴史万華鏡コラム 2025年01月号
高知市広報「あかるいまち」より
六世竹本土佐太夫の軌跡
安田の農家に生まれた南馬太郎は、後に浄瑠璃語りで名をはせる太夫となった。
浄瑠璃とは、三味線の伴奏に合わせて太夫が物語を語り上げる劇中音楽の一つである。人形を用いた人形浄瑠璃が古典芸能の一つとして今も人気を集めているが、江戸時代に浄瑠璃は、今のカラオケのように大衆になじみのあるものとして広まり、高知県でもあちこちで素人浄瑠璃の集まりが競い合っていた。
文久3(1863)年9月、高知県東部の海に面した安田浦(現安田町)で生まれた馬太郎は、父の仕事で高知市内に出る。ここで浄瑠璃に出会い、のめり込んでいった。素人浄瑠璃の名人から教えを乞い、因会という浄瑠璃の組織で活躍した。その後縁あって上京し、太夫の道が開け、浄瑠璃の世界へと突き進んでいく。さまざまな試練を乗り越え努力が実り、大正13(1924)年9月、61歳で六世竹本土佐太夫を襲名、晩年まで浄瑠璃への情熱を持ち続けた。
馬太郎の人生は、小説を読んでいるようで面白い。一筋縄にいかない「いごっそう」な気質が垣間見えるエピソードがある。
後藤象二郎に浄瑠璃の才能を見抜かれた馬太郎は、援助をするから太夫になれと勧められるもそれを断り、自分で決めて大隅太夫へ弟子入りをした。ある時、脚気にかかり助けを乞うが、大隅太夫一座の者たちに相手にしてもらえなかった。その後、一座から興行先で助けを求められた際に「そんな勝手な道理があるものか」と居直ったという。馬太郎はその興行をきっかけに由緒ある伊達太夫の名をもらうこととなったが、どんな時でも自身の筋を通した行動と言動に、土佐の「いごっそう」を感じずにはいられない。
現在、安田まちなみ交流館・和では、3月9日まで、彼の軌跡を紹介・展示している。安田の地に生まれた「いごっそうの浄瑠璃語り」の物語を、ぜひこの機会に見に来てほしい。
安田まちなみ交流館・和 文化振興企画員 小松 歩
広報「あかるいまち」 Web版トップ > 歴史万華鏡コラム もくじ
※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。