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歴史万華鏡コラム 2025年04月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

俳人・徳弘(ばい)()

4月号写真
●梅左絶筆の句碑

江戸時代後期に入ると、地方独自の文化が花開くこととなり、「香南の商都」と呼ばれた赤岡においても文化人の名が知られるようになってくる。その中の一人に数えられるのが、徳弘梅左である。

梅左は、天保14(1843)年、香美郡山田村(現香美市土佐山田町)の美濃派俳人・徳弘()(しゅう)の子として生まれた。幼い頃より俳諧の作法を身につけ、成人すると、父とともに子弟を指導した。幕末には藩の下級役人を、明治になってからは赤岡村役場の書記などを務めているが、激動の幕末明治期に俳諧一筋にその日々を過ごした。

明治13(1880)年、38歳の時、香我美町岸本の俳友・松風(まつかぜ)の追善句集『朝露』を刊行するに当たり、序文を記し、選句を担当した。明治17(1884)年には、土佐俳壇中興の人と称される()(さき)()(しょう)が「風月社」を創立した際に他の俳人たちとともに社員として参加している。

明治21(1888)年には、赤岡村初代村長の小松与右衛門(よえもん)の持ち家であった本町の居宅を譲り受け、没年までの21年間、後進の養成に努めた。「秋の山海を隔てて暮にけり」という梅左の有名な句は、この居宅南側の座敷からの眺望であったと伝わっている。なお、梅左の住まいと弘瀬金蔵(絵金)が身を寄せた屋敷が向かい合っていたことから、梅左と絵金に交友があったかのような説もあるが、梅左が赤岡に居を構える12年前に絵金が没していることから、交友関係はほぼないと言える。

梅左は香南市香我美町岸本にある宝幢院(ほうどういん)の境内にて、明治28(1895)年に没した父・其舟の句碑を建立している。

「みな家に帰る人なり秋のくれ 其舟」

自身は明治42(1909)年6月18日没、享年67、須留田(するだ)(やま)にて眠る。郷士の末裔(まつえい)らしく謙虚に堅実に生きた生涯であった。其舟の句碑の隣には梅左絶筆の句碑が建立されている。

「露ちるや己れも浮世の旅の人 梅左」

絵金蔵 学芸員 中西 洸太朗

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。