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板垣退助の墓

板垣退助の墓

板垣は少年時代、1歳年下の後藤象二郎らとともに、腕白者として聞こえており、勉強よりも相撲や水泳の好きな少年であったようである。20歳の頃には粗暴な行いがもとで、藩庁から城下四ヵ村(潮江・下知・江ノ口・小高坂)追放の処分を受けている。

戊辰戦争では、東北各地に転戦して功績をあげ、戦後高知藩大参事をへて、新政府の参議になったが、明治6(1873)年10月西郷らと征韓論を唱えて野に下り、翌年春に高知に帰って立志社を創立。自由民権運動の先頭に立った。

自由民権運動は世論を動かし、明治22(1889)年に憲法発布、国会開設へと進んだ。板垣は伊藤内閣、大隈内閣で内務大臣の要職に就いた。明治33(1900)年政界を引退した後は、社会改良運動に晩年を捧げた。大正8(1919)年7月16日に83歳で死去。東京都品川神社裏の旧高源院に葬られ、分骨がこの地に埋葬された。退助の墓の横には妻の墓もある。

板垣退助の墓の写真 板垣退助の妻の墓の写真

 

 
場所 高知市薊野東町14の先
駐車場(下記に詳細記載) あり
関連する観光情報 板垣退助について

 

<専用駐車場>

 駐車場内には、市内の板垣退助ゆかりの場所を周遊できるよう、民権史跡の周遊案内看板を設置しています。

駐車場看板 全体 看板